新規ブログ!
引っ越しました。新たな「一生テンポラリー」グループのcollectiveも始動致しました。
参加自由。all ages.
よろしゅう。
Saturday, July 5, 2008
Monday, February 18, 2008
ケロケロケロッピとダブステップ
「やっぱデトロイトっしょ!」
と数年前にU君に言われた時、
「だよな、ストゥージズだよな。MC5だよな」
と本気で答えたことがある。
今日は久しぶりにレコードを買った。
ストゥージズの "1970"の7インチ。
U君はその時デトロイトテクノに夢中だったのだと思う。
でも僕には全く理解できなかった。
キーワードは「宇宙」的なあの4つ打ちがショボく聴こえた。
21世紀に生きる自分にとっては80−90年代のテクノなど「懐かしのあの頃特集」のような音に感じられた。
フォークに夢中だった2006−7年。ようやく時代に遅れてダブステップが効いてきた。ハネるようなビートと凶悪なベースが部屋を這いずり回る。もう登場しはじめてから3年くらいになってようやく、この南ロンドンからやってきたダブステップは、20年前の音楽ファン達を虜にしてきたであろうデトロイトテクノの僕に取ってのリアルタイム版となってくれている。
レベルファミリア音源ではないゴス・トラッドもようやく分かってきた。デジタルミスティックスもスクリームもベンガもようやく響いてきた。
生音バンド以外興味をほぼ完全に失っていたここ2年間。
あんなに楽しかったエレクトロニカがいつからか急に退屈になって以来、久しぶりに電子音楽に浸るのがすごく新鮮で楽しい。
しばらくは音楽への興味も失いつつあった。
レコード屋へ、というよりもニューヨーク中の古本屋ばっかに浸ってた。アコースティックギターは弾いてもドラムマシーンはいじらなかった。いじっても良い音なんて到底できそうになかった。でもついにMPCに取りかかる時が来た感じ。
そしてアコースティック時期を通過してからたどり着いたのは「ミニマル」。
音楽で言えばムーンドッグでありエリック・サティー、作家であればレイモンドカーヴァーでありデイヴィッド・レーヴィット、コーヒーであればアメリカーノでありエスプレッソだ。
コーヒーと言えば、そう言えば最近、BROOKLYN GORILLAというインデペンデントなコーヒーブランドが登場した。販売しているコーヒー豆の外装にはすべて豆が焙煎された日時がペンで(!)雑に記されている。手作りのインデペンデントブランドだからこそ成せる気遣いが素晴らしい。
また、ブルックリンゴリラを販売しているオーガニックグロッサリーチェーンの「Whole Foods」は
4月の「EARTH DAY」を境にビニール袋の全廃を開始するらしい。
何故か偶然ネット上で発見したなつかしのケロッピ。
そしてついに明日は我がウィスコンシン州で党員集会だ。
Tuesday, February 12, 2008
アクロス・ザ・ユニバース
マイレージを貯めているため、1月下旬に日本へ一時帰国した際に利用したアメリカン航空で偶然見た映画「アクロス・ザ・ユニバース」。
米国時間4日に、スペインのアンテナよりNASAの創設50周年を記念し、その日が録音40周年となっていたビートルズの名曲「アクロス・ザ・ユニバース」。
「よくやった!宇宙人によろしく言っといてくれ」とNASAに伝えたというポール・マッカートニーの発言はあまりよく分からなかったけれど、ビートルズの曲が北極星に向けて送信されたというのは面白い。その企画を持ち込んだ米国のビートルズファンの行動も謎だけれど、それにしてもこの映画は傑作だった。昨年夏頃にオンエアされた「アクロス・ザ・ユニバース」。
ニューヨークが舞台の、ジュードとルーシーが主人公のラブストーリー。
と、一言でまとめてしまうとひどく凡庸なビートルズ映画に聞こえる。
しかしつい2回も連続で見てしまったほどこの映画は傑作だった。
リバプール出身のジュード(これだけで完璧です)が、疎開になっている父親を探してやってきたのは1960年代のアメリカ。アメリカの古き良き時代は過ぎ去り、ビートニクはヒッピー文化にとって変わられ、公民権運動とヴェトナム戦争に突入する時代。
ジュードは、一緒につるむ仲間、アイビーリーグ系のマックスの妹、ルーシー(これも完璧です)に恋をする。
ある晩、マックスとジュードはニューヨークへ移ることを決めると勢いですぐに旅立った。
初めて移り住んだ大都会でひたすら遊びふける2人だが、そのうちマックスはヴェトナム戦争へ徴収されてしまう。兄のマックスを訪れながらニューヨークへ移り住んでしまった純粋な妹ルーシーは、恋人を戦争で失ったことも重なり、日に日に過激さを増すヴェトナム戦争とともに気付いたら反戦運動に関わるようになってしまっていた。
米国民ではないジュードは、徴収される理由もなく、ペインティングやドローイングに明け暮れる毎日。
遠い異国での戦争で怯えながら戦っている兄、毎日繰り返される街の過激な反戦運動と、方や一方ではアパートの一室で毎日アートに勤しむ恋人の迫で揺れるルーシー。気付けばは反戦を訴え、2人の関係も変わっていってしまう。ある時喧嘩を境に、アパートを出て行かれ傷心のジュードはその後当てもなく街を飲み彷徨う。しかしある時大きな反戦デモが行われ、警察に強引に取り押さえられるルーシーを見つけたジュードは、無我夢中で警察を払いのけルーシーを求めるが警察の手に捕まってしまい、英国へ帰ることとなってしまった。
再び地元リバプールの炭坑で働き始めるジュードだが、ルーシーのことがどうしても忘れられず再び米国へ入国。再度訪れたニューヨークでは戦争帰りのマックスと再会を分かち合う。2人がニューヨークの街を車で走っているとどこからともなく聞こえ慣れた声が...
それは昔つるんでいたミュージシャンの友人の歌声で、彼らのバンドはアパートメントの屋上で平和を訴える音楽を演奏していた。マックスとジュードは喜びとともに屋上へ駆け上り、久しぶりの友人らと再会を果たす。しかしそのゲリラライブを阻止しようと介入した警察の手によってメンバーらは下へ連れ下ろされるが、送還を避けるため警察の手をうまくすり抜けたジュードは、みんながアパート下へ連れ戻された後一人残った屋上で残されたマイクを手にする、そして....
と、まぁ表現もできないのは承知であらすじを書いてしまったが、
素晴らしいのはその映画の構成。
登場人物らのセリフがそのままビートルズの歌になる。もちろん原曲ではなく、出演者らによる歌。歌詞とセリフ、場面がいちいちピッタリで最高に気持ちが良い。場面によってはダンスや演劇みたいなシーンも多々あり、それら全てが独自のアレンジによるビートルズカバー。そう、映画「ムーラン・ルージュ」に近い感覚で物語は進んでくのだ。
それともう一つの見所は映像。
一つ一つの映像美はもちろんのこと、特に素晴らしいのはこの製作スタッフ達が、その時代背景を表すヒッピー文化を見事なまでのサイデリックな映像で表現しているところ。絶妙なトリップ映像に合わせて登場するのが、口ひげをつけカウボーイハットを被ったU2のボノ、歌うは「I am the Walrus」。ほらこれ、もう文句ないでしょう。
なんて見てない映画の説明こそつまらないものは無いんです。
それでも書きたくなってしまったのだから仕方ない。これを読んでくれた人は、日本で放映されたら一度見てみて下さい。
これが宣伝用ハイライト。
それと、この作品の小さなディテールも良かった。
もろリバプールアクセントな英語を話すジュード(なまりがマジかっけー)、今までタバコも吸ったことのなかったという少女をいとも簡単に反戦運動に没頭させてしまうほど強力で影響力のある戦争プロパガンダ、アイビーリーグ出身で反抗者のおぼっちゃんがナメてかかって参加する戦争、そしてそこでのトラウマに負傷の痛みにと様々な理由で利用するしかなくなるドラッグ、ひたすらフラワームーブメント一色のイーストヴィレッジ。
それでも特に、「一般」であったルーシーが、時代の波に飲まれ「活動的」になっていくというシナリオがツボだった。
それと、名曲「レヴォリューション」を唄いながら、反戦活動に明け暮れるルーシーの事務所に一人で「君は革命が必要だって言う。そりゃみんな誰だって世の中を変えたいさ。」と唄いながら殴り込むシーンが最高。戦争なんてどうでも良いと思って、アートに打ち込んでいるんじゃない、メガフォンを持って叫んでいれば正義なのか、とつっかかるシーンが素晴らしかった。「アクロス・ザ・ユニバース」、「Nothing's gonna change my world」。
そういえば、これに似たようなことを前に、2002年にブッシュ大統領が日本へ来日した時にもよく思った。
あの時参列した「来日反対デモ運動」で行進していたあるデモ団体は、誰一人として政治的意見を声高に主張する者はいなく、デモ運動が一通り終わるとそこで出会った者どうしで飲みに行った。カラオケと居酒屋、どちらにするかを悩んでいた。あの時ほどバカらしくなった時はなかったかもしれない。もちろんすぐに帰った。
でもやはりそういうものなのだ、と今なら強く思う。
ヒラリー・クリントンだって4年前にはイラク戦争を支持していた。当たり前のようにブッシュ政権のイラク戦争を非難している米国民の半数は当時、アフガニスタンを責めてアルカイダを潰すことに反対はしなかったのだ。日本で1960年代に学校封鎖などをした世代の人間だって、米国のイラク戦争に対しアクションは起こさなかった。何を思っていたか思っていなかったかではなく、みんな「行動」に出なかった。そう、彼らは年をとったし、時代の風が当時とは温度も風向きも何もかも違って見えたから、声を上げる人の数は少なかった。
ワールドカップが始まると突如現れる無責任でインスタントなナショナリズムにも同じようなことを思った。
偶然にもそんなような話を最近ある人とした。
彼女は911で夫を亡くした。彼女の持っていたオフィスは当時ワールドトレードセンター付近にあった。事件当時、彼女は取引先の人が灰で真っ白になって彼女を訪れたという。その前、最中、後かは覚えていないというがハッキリ見えたのはたくさんの人間がビルから落ちて行く風景だったと。彼女の視線に気付いた彼は泣きながら彼女に話しかけ、何を言うでもなく、きっとその後ろで起きている出来事から目をそらしていたんだろうね、と言った。
それでも私が体験した広島の爆撃に比べたらマシだったのかもしれないけどね、とも話してくれた。テロで夫を、戦争で祖父母を亡くした彼女は、無責任なナショナリズムやファッション化したアンチ・ムーブメントが一番嫌いだと言ってた。怒りや悲しみを抱えて黙っていることが正しいのかは分からないけれど、何も知らずに何の責任やリスクも背負わずに偉そうな行動をとるのを見ているのには腹が立つ、と。
昨年の今頃に見た映画を思い出した。ボブディランそっくりのアダムサンドラーとドンチードルによる映画「Reign Over Me(邦題:再会の街で)」
今日本で公開中みたい。
911、ニューヨーク、The Whoに興味のある方はぜひ。
めずらしく映画について書きました。
それではごきげんよう。
P.S. マリオットホテルのトイレで、ドンチードルを見ました(自慢)。
米国時間4日に、スペインのアンテナよりNASAの創設50周年を記念し、その日が録音40周年となっていたビートルズの名曲「アクロス・ザ・ユニバース」。
「よくやった!宇宙人によろしく言っといてくれ」とNASAに伝えたというポール・マッカートニーの発言はあまりよく分からなかったけれど、ビートルズの曲が北極星に向けて送信されたというのは面白い。その企画を持ち込んだ米国のビートルズファンの行動も謎だけれど、それにしてもこの映画は傑作だった。昨年夏頃にオンエアされた「アクロス・ザ・ユニバース」。
ニューヨークが舞台の、ジュードとルーシーが主人公のラブストーリー。
と、一言でまとめてしまうとひどく凡庸なビートルズ映画に聞こえる。
しかしつい2回も連続で見てしまったほどこの映画は傑作だった。
リバプール出身のジュード(これだけで完璧です)が、疎開になっている父親を探してやってきたのは1960年代のアメリカ。アメリカの古き良き時代は過ぎ去り、ビートニクはヒッピー文化にとって変わられ、公民権運動とヴェトナム戦争に突入する時代。
ジュードは、一緒につるむ仲間、アイビーリーグ系のマックスの妹、ルーシー(これも完璧です)に恋をする。
ある晩、マックスとジュードはニューヨークへ移ることを決めると勢いですぐに旅立った。
初めて移り住んだ大都会でひたすら遊びふける2人だが、そのうちマックスはヴェトナム戦争へ徴収されてしまう。兄のマックスを訪れながらニューヨークへ移り住んでしまった純粋な妹ルーシーは、恋人を戦争で失ったことも重なり、日に日に過激さを増すヴェトナム戦争とともに気付いたら反戦運動に関わるようになってしまっていた。
米国民ではないジュードは、徴収される理由もなく、ペインティングやドローイングに明け暮れる毎日。
遠い異国での戦争で怯えながら戦っている兄、毎日繰り返される街の過激な反戦運動と、方や一方ではアパートの一室で毎日アートに勤しむ恋人の迫で揺れるルーシー。気付けばは反戦を訴え、2人の関係も変わっていってしまう。ある時喧嘩を境に、アパートを出て行かれ傷心のジュードはその後当てもなく街を飲み彷徨う。しかしある時大きな反戦デモが行われ、警察に強引に取り押さえられるルーシーを見つけたジュードは、無我夢中で警察を払いのけルーシーを求めるが警察の手に捕まってしまい、英国へ帰ることとなってしまった。
再び地元リバプールの炭坑で働き始めるジュードだが、ルーシーのことがどうしても忘れられず再び米国へ入国。再度訪れたニューヨークでは戦争帰りのマックスと再会を分かち合う。2人がニューヨークの街を車で走っているとどこからともなく聞こえ慣れた声が...
それは昔つるんでいたミュージシャンの友人の歌声で、彼らのバンドはアパートメントの屋上で平和を訴える音楽を演奏していた。マックスとジュードは喜びとともに屋上へ駆け上り、久しぶりの友人らと再会を果たす。しかしそのゲリラライブを阻止しようと介入した警察の手によってメンバーらは下へ連れ下ろされるが、送還を避けるため警察の手をうまくすり抜けたジュードは、みんながアパート下へ連れ戻された後一人残った屋上で残されたマイクを手にする、そして....
と、まぁ表現もできないのは承知であらすじを書いてしまったが、
素晴らしいのはその映画の構成。
登場人物らのセリフがそのままビートルズの歌になる。もちろん原曲ではなく、出演者らによる歌。歌詞とセリフ、場面がいちいちピッタリで最高に気持ちが良い。場面によってはダンスや演劇みたいなシーンも多々あり、それら全てが独自のアレンジによるビートルズカバー。そう、映画「ムーラン・ルージュ」に近い感覚で物語は進んでくのだ。
それともう一つの見所は映像。
一つ一つの映像美はもちろんのこと、特に素晴らしいのはこの製作スタッフ達が、その時代背景を表すヒッピー文化を見事なまでのサイデリックな映像で表現しているところ。絶妙なトリップ映像に合わせて登場するのが、口ひげをつけカウボーイハットを被ったU2のボノ、歌うは「I am the Walrus」。ほらこれ、もう文句ないでしょう。
なんて見てない映画の説明こそつまらないものは無いんです。
それでも書きたくなってしまったのだから仕方ない。これを読んでくれた人は、日本で放映されたら一度見てみて下さい。
これが宣伝用ハイライト。
それと、この作品の小さなディテールも良かった。
もろリバプールアクセントな英語を話すジュード(なまりがマジかっけー)、今までタバコも吸ったことのなかったという少女をいとも簡単に反戦運動に没頭させてしまうほど強力で影響力のある戦争プロパガンダ、アイビーリーグ出身で反抗者のおぼっちゃんがナメてかかって参加する戦争、そしてそこでのトラウマに負傷の痛みにと様々な理由で利用するしかなくなるドラッグ、ひたすらフラワームーブメント一色のイーストヴィレッジ。
それでも特に、「一般」であったルーシーが、時代の波に飲まれ「活動的」になっていくというシナリオがツボだった。
それと、名曲「レヴォリューション」を唄いながら、反戦活動に明け暮れるルーシーの事務所に一人で「君は革命が必要だって言う。そりゃみんな誰だって世の中を変えたいさ。」と唄いながら殴り込むシーンが最高。戦争なんてどうでも良いと思って、アートに打ち込んでいるんじゃない、メガフォンを持って叫んでいれば正義なのか、とつっかかるシーンが素晴らしかった。「アクロス・ザ・ユニバース」、「Nothing's gonna change my world」。
そういえば、これに似たようなことを前に、2002年にブッシュ大統領が日本へ来日した時にもよく思った。
あの時参列した「来日反対デモ運動」で行進していたあるデモ団体は、誰一人として政治的意見を声高に主張する者はいなく、デモ運動が一通り終わるとそこで出会った者どうしで飲みに行った。カラオケと居酒屋、どちらにするかを悩んでいた。あの時ほどバカらしくなった時はなかったかもしれない。もちろんすぐに帰った。
でもやはりそういうものなのだ、と今なら強く思う。
ヒラリー・クリントンだって4年前にはイラク戦争を支持していた。当たり前のようにブッシュ政権のイラク戦争を非難している米国民の半数は当時、アフガニスタンを責めてアルカイダを潰すことに反対はしなかったのだ。日本で1960年代に学校封鎖などをした世代の人間だって、米国のイラク戦争に対しアクションは起こさなかった。何を思っていたか思っていなかったかではなく、みんな「行動」に出なかった。そう、彼らは年をとったし、時代の風が当時とは温度も風向きも何もかも違って見えたから、声を上げる人の数は少なかった。
ワールドカップが始まると突如現れる無責任でインスタントなナショナリズムにも同じようなことを思った。
偶然にもそんなような話を最近ある人とした。
彼女は911で夫を亡くした。彼女の持っていたオフィスは当時ワールドトレードセンター付近にあった。事件当時、彼女は取引先の人が灰で真っ白になって彼女を訪れたという。その前、最中、後かは覚えていないというがハッキリ見えたのはたくさんの人間がビルから落ちて行く風景だったと。彼女の視線に気付いた彼は泣きながら彼女に話しかけ、何を言うでもなく、きっとその後ろで起きている出来事から目をそらしていたんだろうね、と言った。
それでも私が体験した広島の爆撃に比べたらマシだったのかもしれないけどね、とも話してくれた。テロで夫を、戦争で祖父母を亡くした彼女は、無責任なナショナリズムやファッション化したアンチ・ムーブメントが一番嫌いだと言ってた。怒りや悲しみを抱えて黙っていることが正しいのかは分からないけれど、何も知らずに何の責任やリスクも背負わずに偉そうな行動をとるのを見ているのには腹が立つ、と。
昨年の今頃に見た映画を思い出した。ボブディランそっくりのアダムサンドラーとドンチードルによる映画「Reign Over Me(邦題:再会の街で)」
今日本で公開中みたい。
911、ニューヨーク、The Whoに興味のある方はぜひ。
めずらしく映画について書きました。
それではごきげんよう。
P.S. マリオットホテルのトイレで、ドンチードルを見ました(自慢)。
Friday, February 8, 2008
7th stanza is pointing out.
i tried all the best for them,
instead of complying about any,
i was putting myself aside in the dark
like inside of a enourmous bee's darkish belly,
to give them a nod and,
and i did try my best you know it.
in the full of complexity, i still,
instead of offering them another,
woke up my collar and studied'em all
in that cold wind blowing emptiness the bullshit,
for just this non fucking profit efforts,
i did try as much as i could you know it.
in the full moon or the half, i tried,
as at least the one that-everyone-want-to-throw-away-yet-hold-inside,
to make it over, the problem, to get it over, the problem,
even when this my vital had been lowering myself down sick,
i still did keep trying to hold the moon back to be functioning you must fucking know it.
without what my enthusiasm was to, i tried,
for the sake of my contribution, to spread that beloved dim passion,
throughout this grey concrete sucker,
i did still, did everything, literally everything.
and now, finally, everything turned me out dead.
as it happend, i saw me dead-there-before-now-met-with,
not being able to say a word over the phone anymore,
while knowing me saying a prayer inside even now,
i even think i want to tell them nothing back,
i'm done. it's over. i'm with the end, once i saw there and now i be with here, hanging out,
he became my firend here, the end.
joni mitchell's 'River" sounds,
a little different, than that sounded when played with that New Jersey's Manhattan panorama.
i think i am leaving in June,
leaving that skyscrapper behind,
I am quite, tired you know.
i think i am leaving soon,
back toward them,
I am quite, disappointed you know.
instead of complying about any,
i was putting myself aside in the dark
like inside of a enourmous bee's darkish belly,
to give them a nod and,
and i did try my best you know it.
in the full of complexity, i still,
instead of offering them another,
woke up my collar and studied'em all
in that cold wind blowing emptiness the bullshit,
for just this non fucking profit efforts,
i did try as much as i could you know it.
in the full moon or the half, i tried,
as at least the one that-everyone-want-to-throw-away-yet-hold-inside,
to make it over, the problem, to get it over, the problem,
even when this my vital had been lowering myself down sick,
i still did keep trying to hold the moon back to be functioning you must fucking know it.
without what my enthusiasm was to, i tried,
for the sake of my contribution, to spread that beloved dim passion,
throughout this grey concrete sucker,
i did still, did everything, literally everything.
and now, finally, everything turned me out dead.
as it happend, i saw me dead-there-before-now-met-with,
not being able to say a word over the phone anymore,
while knowing me saying a prayer inside even now,
i even think i want to tell them nothing back,
i'm done. it's over. i'm with the end, once i saw there and now i be with here, hanging out,
he became my firend here, the end.
joni mitchell's 'River" sounds,
a little different, than that sounded when played with that New Jersey's Manhattan panorama.
i think i am leaving in June,
leaving that skyscrapper behind,
I am quite, tired you know.
i think i am leaving soon,
back toward them,
I am quite, disappointed you know.
Monday, February 4, 2008
70%理論〜超資本主義的社会〜回文ともう一度「中国」
「ガーって号泣したり、思いのたけをぶつけたりするときも、『ちょっとそんなことしてる自分っておもしろいよな』っていうのを30%持っときたいっていうのが理想としてあるんですよ。70%本気でも30%のりしろがほしいって最近思うようになってて、文章でも『70%理論』を持ってるのが好きなんです。」
これは雑誌「広告批評」2008年1月号でインタビューに答えた芥川賞作家の川上未映子さんの言葉(表紙写真は蒼井優)。
正直現在まで彼女の著作品「乳と卵」や「in 歯』」などは一度も読んだことがないのだけれど、このインタビューは僕にとって彼女の作品を宣伝する最適な広告となった。
ここで彼女の言う「70%理論」が果たしていつでもどこでも正しいのか、と言われたら「はい」とは一概には言えないのかもしれないけれど、なるべくならば僕もこういうスタンスを常に忘れずにいたいと思う。もちろん、これが誰にとってもの正論とは言い切らないのを前提にね。
「でも楽じゃん、そうあれれば。」
そう、自分が頭を抱えて悩んだつもりのような物事なんて、ゆくゆく考えれば大抵大した問題ではないのだ。だって、これはあまりに私事な例だけれど、自分が担当している広告主の営業先と何かトチッたとしても、それが理由で誰が殺されるわけでもないしね。2001年に起きた同時テロ、ペンタゴンの爆撃だって、僕が同年8月のサマーソニックでプライマル・スクリームが演奏した「Bomb the Pentagon(改名後のタイトルはRISE)」で踊り狂ったこととは何の関係もないし。
こんなことを言ったら体育会系な人達(体育会系というのもまた曖昧な定義。定義?)の叱責を買いそうだけれど、でも事実として何かを失敗したらまずは冷静になって考えて適度な反省と一緒にその分のお返しをすれば良い。それを「30%ののりしろ部分」を踏み台にして、楽しく気持ちよいお返しを実行できれば大抵のケースは償えるし、双方共にまさに「結果オーライ」となる。
それでも面白いのが、そういうケースに限って「結果」よりも「経過」を気にする人たちが多いこと。仕事をしていると多くぶち当たるこの矛盾。「信頼」とか。いつまでもグチグチ言い続ける人も少なくはない。会社というシステムなどでは、給与のコミッション制度だとか何かと「事物を見る、理解する、判断する」作業を一切省く簡単な「結果」制で片付けるくせにね。もちろん、「じゃあ『経過オーライ』にすればいいじゃん」、などと浅薄な意見をここで主張する気もさらさらないけれど。
と、「結果」という言葉から全く関係のない話に飛んでしまったけれど、言葉というのはこの派生力が本当に面白い。
日本で言う卒論みたいなもので、大学を卒業する際に「詩集」を書いたことがあるのだけれど、「詩」は頭の中に目一杯広がる地図を言葉で派生させていくようなもの。今っぽくいえば、「クリエイティブ」?
当たり前だけれど、言葉の派生力で繋がっていく一つ一つのテーマは、文章全体の構成をひっくり返して進めても繋がる。だって「一つの言葉」を磁針に主題が引っ越していくんだから。そう、このブログのタイトルである "fake palindromes" の「Palindrome」とは、回文の意。回文というのは「前から読んでも同じように読める語句や文」です。そしてここですごく重要なのは、「fake」がついていること。そう、本名を好評していない所詮匿名のこのブログなんて行為はプロの業技ではない。更には、僕にはこの「回文理論」に真理だとか何かそういうものに帰存する意思さえ持ち合わせていないのです。だってこんなこと言いながらもこのタイトル「fake palindromes」とは、実は僕の大好きなアーティスト Andrew Bird の中でも最も好きな曲のタイトルを勝手に拝借しているなんだから。
それでも、こうやって自己発見を重ねながらそこに座っているどこかの誰かが「なるほど」と一瞬でも「考える」ことをしてくれれば、
「結果オーライでしょう?ここは資本主義世の中ですよ?結果が良ければすべて良いでしょう、それがフェイクだとしてもさ。」
だから悲運にも「フェイク」や「偽装」といったタームでしか日本のメディアは紹介しない「中国」の僕的再評価が高いわけですよ!
それではあまりに格好良すぎる天才アンドリュー・バード氏の写真をいくつかどうぞ。
蒼井優もかわいいけど、彼もやっぱり超かっけーね。
ヴァイオリンの音と泣きメロ、味の素よりも強力なリリックを携えたアンドリュー・バードのミラクル・アヴァン・ポップ・ワールドに興味のある方は、まずはアルバム「THE MYSTERIOUS PRODUCTION OF EGGS」からがおススメです。
4曲目が「FAKE PALINDROMES」です。ぜひ泣いて踊ってみて。
"Jesus, don't you know that you could've died! should've died with the monsters that talk, monsters that walk the earth!!!"
ー「Fake Palindromes」より。
*写真はもちろんすべてグーグル・イメージより勝手に拝借、sucker.
これは雑誌「広告批評」2008年1月号でインタビューに答えた芥川賞作家の川上未映子さんの言葉(表紙写真は蒼井優)。
正直現在まで彼女の著作品「乳と卵」や「in 歯』」などは一度も読んだことがないのだけれど、このインタビューは僕にとって彼女の作品を宣伝する最適な広告となった。
ここで彼女の言う「70%理論」が果たしていつでもどこでも正しいのか、と言われたら「はい」とは一概には言えないのかもしれないけれど、なるべくならば僕もこういうスタンスを常に忘れずにいたいと思う。もちろん、これが誰にとってもの正論とは言い切らないのを前提にね。
「でも楽じゃん、そうあれれば。」
そう、自分が頭を抱えて悩んだつもりのような物事なんて、ゆくゆく考えれば大抵大した問題ではないのだ。だって、これはあまりに私事な例だけれど、自分が担当している広告主の営業先と何かトチッたとしても、それが理由で誰が殺されるわけでもないしね。2001年に起きた同時テロ、ペンタゴンの爆撃だって、僕が同年8月のサマーソニックでプライマル・スクリームが演奏した「Bomb the Pentagon(改名後のタイトルはRISE)」で踊り狂ったこととは何の関係もないし。
こんなことを言ったら体育会系な人達(体育会系というのもまた曖昧な定義。定義?)の叱責を買いそうだけれど、でも事実として何かを失敗したらまずは冷静になって考えて適度な反省と一緒にその分のお返しをすれば良い。それを「30%ののりしろ部分」を踏み台にして、楽しく気持ちよいお返しを実行できれば大抵のケースは償えるし、双方共にまさに「結果オーライ」となる。
それでも面白いのが、そういうケースに限って「結果」よりも「経過」を気にする人たちが多いこと。仕事をしていると多くぶち当たるこの矛盾。「信頼」とか。いつまでもグチグチ言い続ける人も少なくはない。会社というシステムなどでは、給与のコミッション制度だとか何かと「事物を見る、理解する、判断する」作業を一切省く簡単な「結果」制で片付けるくせにね。もちろん、「じゃあ『経過オーライ』にすればいいじゃん」、などと浅薄な意見をここで主張する気もさらさらないけれど。
と、「結果」という言葉から全く関係のない話に飛んでしまったけれど、言葉というのはこの派生力が本当に面白い。
日本で言う卒論みたいなもので、大学を卒業する際に「詩集」を書いたことがあるのだけれど、「詩」は頭の中に目一杯広がる地図を言葉で派生させていくようなもの。今っぽくいえば、「クリエイティブ」?
当たり前だけれど、言葉の派生力で繋がっていく一つ一つのテーマは、文章全体の構成をひっくり返して進めても繋がる。だって「一つの言葉」を磁針に主題が引っ越していくんだから。そう、このブログのタイトルである "fake palindromes" の「Palindrome」とは、回文の意。回文というのは「前から読んでも同じように読める語句や文」です。そしてここですごく重要なのは、「fake」がついていること。そう、本名を好評していない所詮匿名のこのブログなんて行為はプロの業技ではない。更には、僕にはこの「回文理論」に真理だとか何かそういうものに帰存する意思さえ持ち合わせていないのです。だってこんなこと言いながらもこのタイトル「fake palindromes」とは、実は僕の大好きなアーティスト Andrew Bird の中でも最も好きな曲のタイトルを勝手に拝借しているなんだから。
それでも、こうやって自己発見を重ねながらそこに座っているどこかの誰かが「なるほど」と一瞬でも「考える」ことをしてくれれば、
「結果オーライでしょう?ここは資本主義世の中ですよ?結果が良ければすべて良いでしょう、それがフェイクだとしてもさ。」
だから悲運にも「フェイク」や「偽装」といったタームでしか日本のメディアは紹介しない「中国」の僕的再評価が高いわけですよ!
それではあまりに格好良すぎる天才アンドリュー・バード氏の写真をいくつかどうぞ。
蒼井優もかわいいけど、彼もやっぱり超かっけーね。
ヴァイオリンの音と泣きメロ、味の素よりも強力なリリックを携えたアンドリュー・バードのミラクル・アヴァン・ポップ・ワールドに興味のある方は、まずはアルバム「THE MYSTERIOUS PRODUCTION OF EGGS」からがおススメです。
4曲目が「FAKE PALINDROMES」です。ぜひ泣いて踊ってみて。
"Jesus, don't you know that you could've died! should've died with the monsters that talk, monsters that walk the earth!!!"
ー「Fake Palindromes」より。
*写真はもちろんすべてグーグル・イメージより勝手に拝借、sucker.
Thursday, January 24, 2008
中国がやってくる
何故こんなにもニューヨークには中国人が多いのか。何故チャイナタウンには飽きもせずくだらないコピー商品や同じデザインのお土産商品が並べられているのか。何故チャイナタウンは汚らしく見えるのか。
ニューヨークに来てから突然アンチ・チャイナになった僕は現在、チャイナに夢中になっている。
仕事柄、ニューヨークで発行されている新聞は読める限り(英語と日本語)、ダウンタウンやチェルシーで主に配置されている無料のゲイ新聞から有料新聞ニューヨークタイムズまでなるべくすべて目を通すように努力しているんだけれど、最近一番面白いと思うのがエポック・タイムス。
これは週刊の無料紙なんだけれど、その新聞記事に最近良く刺激を受ける。エポック・タイムスは英語で書かれているのだけれど、中国人が発行している新聞。もちろん中国語版(オリジナル)も発行されていて、「大紀元」という名前で発行されている。
驚きなのがその中身の充実度。僕が手にするのはニューヨーク・エディションなのだけれど、ニューヨークのローカル記事はもちろん、他紙とは違う視点で書かれた大統領選記事、国籍を超えて充実したアート部門、そして中国に関するニュースが主な特色。
時事性では弱い週刊なのに雑誌化せず「新聞」でいられているのは、自社記事が世間で騒がれている時事速報的なニュースの裏側をとらえているところ。選挙と言えば大きく分けてヒラリー・クリントンとバラックオバマの民主、ジョン・マケインとミット・ロムニー、マイク・ハカビーとルーディー・ジュリアーニの選挙運動報道が毎日繰り返されているが、例えば今週のエポック・タイムスが目をつけていたのがニューヨーク州における支持率で共和党ナンバーワン候補のジョン・マケインがニューヨーク出身のジュリアーニ元ニューヨーク市長を現在12%も上回っているという記事。「なるほどね」と思える、(これはニューヨーク在住に限ってだが)何か知って得したような記事が多い。
そして今週の目玉であったのは、中国内での携帯電話普及の影響についての記事。
現在中国で携帯電話を使用している数は5億にも上ると言われており、ここでは国内でテキストメッセージ(メール)が一般人に広くもたらしている政治的影響について書かれている。現在中国では、大多数の携帯電話保持者が個人用のアカウントで使用している言われている携帯電話というメディアを上手に利用した、アンチ・コミュニスト運動が広がっている。インターネットや携帯電話が来る時代以前は政府による武力的制圧が強く、中国政府や共産主義者らに対する反対活動は数多く水面下で鎮圧されていたが、これらの新しいメディア形態に特徴的な「プライバシーを守れる」という利点を生かし、現在まで恐怖で鎮圧されてきた人々がテキストメッセージなどを使って、今も根強い共産主義を転覆させるような情報が個人から個人へとといった具合に広く展開しているというのだ。内容も「共産主義をやめたい方はは1番を」「共産主義のユースリーグを抜けたい方は2番を」「共産主義のヤング・パイオニア・リーグを抜けたい方は3番を押して下さい」などという「選択肢は脱退のみ」という言わんばかりの気の利いたガイダンスが届くなど、なかなかユーモアに富んだ内容となっている。
更に驚くべきことに、米国、英国、カナダ、オーストラリア、シンガポール、マレーシアなどで発行されている英語版と世界29カ国で発行されている中国語版を中心にフランス、スペイン、ドイツ、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、ヘブライ、スロヴァキア等のエディションが揃っており、ウェブ上ではエポック・タイムスの記事がスウェーデン語、日本語、韓国語、ヴェトナム語、ルーマニア語、インドネシアの言語にも対応している。世界中に大きなコミュニティを持つ中国人だから成せる技だが、それにしてもここまでのバイタリティを保てる彼らにはとことん敬服してしまう。
来たる北京五輪、世界一と言われているワシントンのケネディ・パフォーミング・センターをも越える規模で中国国内に建てられたナショナル・パフォーミング・センター、反共産運動、アート・ブーム、そして海外で広められているメディア活動。「次は中国」とは大分前から言われ続けていたが、ようやくその実態が見えて来た気がした。
昔のルームメイトなどから聞いてはいたが、世界に飛び出し生活している中国人はの多くはかつての中国共産時代の面影を残す制度から逃れるために移住しているというのが嘘ではない気がした。世界からも自国の自由を主張し、わずか40年足らずの共産主義によってレイプされていた4000年の歴史を、世界に拠点を移した彼らが自国に向けて体を張って叫んでいるのだと思うと、これはもうすごいとしか言いようが無い。更に更にすごいのが、そのナショナル・パフォーミング・センターの館長らの悩みが、主な発表の場にしたいはずのクラシックやオペラの講演の有無。何処がすごいかというと「(クラシックやオペラの講演をするかしないかで悩んでいる理由は)それらの大半が輸入物だから」だというわけ。つまり中国は本格的に自国の文化を広めていきたいということ。
中国はやっぱり凄かった!
「まぁ目先の金のことしか頭にないバカな連中も多いけどね」と言ったかつての中国人ルームメイトの言葉が未だに強く僕の脳裏に焼き付いてはいるけれど。
ニューヨークに来てから突然アンチ・チャイナになった僕は現在、チャイナに夢中になっている。
仕事柄、ニューヨークで発行されている新聞は読める限り(英語と日本語)、ダウンタウンやチェルシーで主に配置されている無料のゲイ新聞から有料新聞ニューヨークタイムズまでなるべくすべて目を通すように努力しているんだけれど、最近一番面白いと思うのがエポック・タイムス。
これは週刊の無料紙なんだけれど、その新聞記事に最近良く刺激を受ける。エポック・タイムスは英語で書かれているのだけれど、中国人が発行している新聞。もちろん中国語版(オリジナル)も発行されていて、「大紀元」という名前で発行されている。
驚きなのがその中身の充実度。僕が手にするのはニューヨーク・エディションなのだけれど、ニューヨークのローカル記事はもちろん、他紙とは違う視点で書かれた大統領選記事、国籍を超えて充実したアート部門、そして中国に関するニュースが主な特色。
時事性では弱い週刊なのに雑誌化せず「新聞」でいられているのは、自社記事が世間で騒がれている時事速報的なニュースの裏側をとらえているところ。選挙と言えば大きく分けてヒラリー・クリントンとバラックオバマの民主、ジョン・マケインとミット・ロムニー、マイク・ハカビーとルーディー・ジュリアーニの選挙運動報道が毎日繰り返されているが、例えば今週のエポック・タイムスが目をつけていたのがニューヨーク州における支持率で共和党ナンバーワン候補のジョン・マケインがニューヨーク出身のジュリアーニ元ニューヨーク市長を現在12%も上回っているという記事。「なるほどね」と思える、(これはニューヨーク在住に限ってだが)何か知って得したような記事が多い。
そして今週の目玉であったのは、中国内での携帯電話普及の影響についての記事。
現在中国で携帯電話を使用している数は5億にも上ると言われており、ここでは国内でテキストメッセージ(メール)が一般人に広くもたらしている政治的影響について書かれている。現在中国では、大多数の携帯電話保持者が個人用のアカウントで使用している言われている携帯電話というメディアを上手に利用した、アンチ・コミュニスト運動が広がっている。インターネットや携帯電話が来る時代以前は政府による武力的制圧が強く、中国政府や共産主義者らに対する反対活動は数多く水面下で鎮圧されていたが、これらの新しいメディア形態に特徴的な「プライバシーを守れる」という利点を生かし、現在まで恐怖で鎮圧されてきた人々がテキストメッセージなどを使って、今も根強い共産主義を転覆させるような情報が個人から個人へとといった具合に広く展開しているというのだ。内容も「共産主義をやめたい方はは1番を」「共産主義のユースリーグを抜けたい方は2番を」「共産主義のヤング・パイオニア・リーグを抜けたい方は3番を押して下さい」などという「選択肢は脱退のみ」という言わんばかりの気の利いたガイダンスが届くなど、なかなかユーモアに富んだ内容となっている。
更に驚くべきことに、米国、英国、カナダ、オーストラリア、シンガポール、マレーシアなどで発行されている英語版と世界29カ国で発行されている中国語版を中心にフランス、スペイン、ドイツ、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、ヘブライ、スロヴァキア等のエディションが揃っており、ウェブ上ではエポック・タイムスの記事がスウェーデン語、日本語、韓国語、ヴェトナム語、ルーマニア語、インドネシアの言語にも対応している。世界中に大きなコミュニティを持つ中国人だから成せる技だが、それにしてもここまでのバイタリティを保てる彼らにはとことん敬服してしまう。
来たる北京五輪、世界一と言われているワシントンのケネディ・パフォーミング・センターをも越える規模で中国国内に建てられたナショナル・パフォーミング・センター、反共産運動、アート・ブーム、そして海外で広められているメディア活動。「次は中国」とは大分前から言われ続けていたが、ようやくその実態が見えて来た気がした。
昔のルームメイトなどから聞いてはいたが、世界に飛び出し生活している中国人はの多くはかつての中国共産時代の面影を残す制度から逃れるために移住しているというのが嘘ではない気がした。世界からも自国の自由を主張し、わずか40年足らずの共産主義によってレイプされていた4000年の歴史を、世界に拠点を移した彼らが自国に向けて体を張って叫んでいるのだと思うと、これはもうすごいとしか言いようが無い。更に更にすごいのが、そのナショナル・パフォーミング・センターの館長らの悩みが、主な発表の場にしたいはずのクラシックやオペラの講演の有無。何処がすごいかというと「(クラシックやオペラの講演をするかしないかで悩んでいる理由は)それらの大半が輸入物だから」だというわけ。つまり中国は本格的に自国の文化を広めていきたいということ。
中国はやっぱり凄かった!
「まぁ目先の金のことしか頭にないバカな連中も多いけどね」と言ったかつての中国人ルームメイトの言葉が未だに強く僕の脳裏に焼き付いてはいるけれど。
Monday, January 21, 2008
20日ほど遅れた初夢
新しい年が始まり、初めての夢ー初夢ーは、ひょんな時に起こった。身を切り裂くような風の日にソーホーで食べたおいしいハンバーグの後、この心地よいベッドの上でうとうとしていたら突然やってきた。読みかけていたスコット・フィッツジェラルドの短編も中途半端にそれは突然やってきた。
僕は日本のどこかにいた。誰だか見覚えのない顔と一緒に車に乗っていたと思う。喉がひどく乾き、近くに見えた2軒のセブンイレブンに車を停める。2軒あった。あたかも違う店のような店構えで2軒並んでいたのだ。左側のそれは、セブンイレブンの見慣れた看板を掲げてはいるけれど、その中身はがらんとしていて飲み物はおろか、スナック菓子や雑誌などのコンビニエンスストアに置いてありそうな商品は何一つ持ち合わせていなかったように思う。映画で例えるなら「バッファロー66」のあの冷たそうなあまりに閑散としたグレーのコンクリート。古びたガラスのドアを開けて見える左奥には何故かスーツの仕立て屋のようなセットだけが置いてあり、前にちょこんと座っていたレジにはホコリがかぶっているようにも見えて、店番をしているはずの人間はそこにはいなかった。仕方なく、隣に並ぶネオンの明るい方のセブンイレブンに入ってみたが、それはどこか今まで知っていたセブンイレブンではなく、記憶が正しければ店奥に並んでいるはずの飲料コーナーはそこでは塗り立ての白いコンクリートで覆われていた。レジから見て縦並びであるはずの棚は5列くらいの横並びになっている。よく分からないまま店内をどことなく歩いてみたけど、どうしても飲み物が見つからない。飲み物かな、と思う商品はあったけれど、見慣れたはずのあのいつのまにか捨てにくいゴミへと姿を変えるペットボトルが見当たらない。
これはまぎれもなく夢。何一つ論理的ではない夢。記憶と矛盾が二重した何ら変哲のない夢。
「Siamese Dream」ー僕はスマッシング・パンプキンズのその退廃しながらも高貴なそのイメージが大好きだ。外は暗い。
いつしか飲み物を選び終わっていて、レジに並ぶ、それにしてもすごい人の数だった。
長いレジに並びいざ自分の番が来るとなると、さてお金の払い方が分からない。ポケットに手を伸ばし財布を手に取る。勘定の準備は十分すぎるほど出来ている。しかし肝心のお金の払い方が分からない。店員はのっぺらぼうみたいに突っ立てやがる。後ろに待つ列のどこからともなく舌打ちが聞こえる。かぶっていたニット帽の額らへんに汗がにじむ。すごく腹が立っていた、お金はある。払う準備も出来ている、お金もここに確かにある。それなのに払い方が分からない。
そんなところで目が覚めた。マーティン・ルーサー・キング Jr.の日で今週は3連休。連日の仕事のせいか体がひどく疲れているみたい。時計の針は12時を指していた。カーテンを欠いた窓の外は暗い。窓を開けてみるとやはり寒い。つまり深夜12時だ。
あまり現実がつかめないまま、読みかけのスコット・フィッツジェラルドの短編集の続きを再び開く。自分の翻訳の勉強のために買った村上春樹による翻訳版。開けた続きのページは、スコット・フィッツジェラルドの過ごした1935年についてだった。そこでは、記録されたスコット・フィッツジェラルドについての見聞を基に村上春樹が彼の1935年を語っていた。
大恐慌と共に、すべて順調に進んでいた人気作家としてのスコット・フィッツジェラルドの人生は下降していた。それまで人気作家としてほぼ毎作品を掲載していた商業誌からは不必要とされはじめ、気付いた頃にはヘミングウェイなどの新興作家にその座を奪われていたスコットは、アルコールに溺れていた。その中での描写。
療養のために宿泊していたサウスカロライナのホテルで彼は、ハード・ドリンク(ウィスキー、ワインなど)を一切絶ち、ビールのみを許し作家復帰を目指し奮起していた。その頃の彼はほとんど食事を摂らず、睡眠薬で短い睡眠をとりながら、一日多い時で32本のビールを飲みながら未完成の小説を書き続けていた。ベルボーイがビールを届けてもスコットは顔さえも上げず黙々と書き続け「一本だけビールの栓を開けといてくれ」と頼むだけで、顔をあげずただただひたすら書き続けていた。彼はやはり自分の才能を信じていたし、それに認められることが必要な天才だったのだ。
後に最期の作品となる『崩壊』3部作を出すスコットは、この1935年には何一つ作品を完成できなかった。32本のビールと共に一日中ひたすら書き続けた未完成の作品は一度も外に出ることはなかった。
その情景がとても儚くて思わずヘッドフォンを手に取ると、開けっ放しのiTunesからは友人であるKeiichi Nanba君の音楽が鳴っていた。耳から脳へと届くアルペジオのループと共に一気にそれを一冊読み終えた。
そして、ある不動産関係の知人から先日頂いたフロリダ産オレンジを取りにキッチンまで行き包丁を入れると、一気に食べきってやった。太陽の光をたっぷり含んだ。確かにそのオレンジはそんな味がしたような気さえした。
外はまだ暗い。世界はまだ寝ている。今日だって相変わらずの怠け者だ。
僕は日本のどこかにいた。誰だか見覚えのない顔と一緒に車に乗っていたと思う。喉がひどく乾き、近くに見えた2軒のセブンイレブンに車を停める。2軒あった。あたかも違う店のような店構えで2軒並んでいたのだ。左側のそれは、セブンイレブンの見慣れた看板を掲げてはいるけれど、その中身はがらんとしていて飲み物はおろか、スナック菓子や雑誌などのコンビニエンスストアに置いてありそうな商品は何一つ持ち合わせていなかったように思う。映画で例えるなら「バッファロー66」のあの冷たそうなあまりに閑散としたグレーのコンクリート。古びたガラスのドアを開けて見える左奥には何故かスーツの仕立て屋のようなセットだけが置いてあり、前にちょこんと座っていたレジにはホコリがかぶっているようにも見えて、店番をしているはずの人間はそこにはいなかった。仕方なく、隣に並ぶネオンの明るい方のセブンイレブンに入ってみたが、それはどこか今まで知っていたセブンイレブンではなく、記憶が正しければ店奥に並んでいるはずの飲料コーナーはそこでは塗り立ての白いコンクリートで覆われていた。レジから見て縦並びであるはずの棚は5列くらいの横並びになっている。よく分からないまま店内をどことなく歩いてみたけど、どうしても飲み物が見つからない。飲み物かな、と思う商品はあったけれど、見慣れたはずのあのいつのまにか捨てにくいゴミへと姿を変えるペットボトルが見当たらない。
これはまぎれもなく夢。何一つ論理的ではない夢。記憶と矛盾が二重した何ら変哲のない夢。
「Siamese Dream」ー僕はスマッシング・パンプキンズのその退廃しながらも高貴なそのイメージが大好きだ。外は暗い。
いつしか飲み物を選び終わっていて、レジに並ぶ、それにしてもすごい人の数だった。
長いレジに並びいざ自分の番が来るとなると、さてお金の払い方が分からない。ポケットに手を伸ばし財布を手に取る。勘定の準備は十分すぎるほど出来ている。しかし肝心のお金の払い方が分からない。店員はのっぺらぼうみたいに突っ立てやがる。後ろに待つ列のどこからともなく舌打ちが聞こえる。かぶっていたニット帽の額らへんに汗がにじむ。すごく腹が立っていた、お金はある。払う準備も出来ている、お金もここに確かにある。それなのに払い方が分からない。
そんなところで目が覚めた。マーティン・ルーサー・キング Jr.の日で今週は3連休。連日の仕事のせいか体がひどく疲れているみたい。時計の針は12時を指していた。カーテンを欠いた窓の外は暗い。窓を開けてみるとやはり寒い。つまり深夜12時だ。
あまり現実がつかめないまま、読みかけのスコット・フィッツジェラルドの短編集の続きを再び開く。自分の翻訳の勉強のために買った村上春樹による翻訳版。開けた続きのページは、スコット・フィッツジェラルドの過ごした1935年についてだった。そこでは、記録されたスコット・フィッツジェラルドについての見聞を基に村上春樹が彼の1935年を語っていた。
大恐慌と共に、すべて順調に進んでいた人気作家としてのスコット・フィッツジェラルドの人生は下降していた。それまで人気作家としてほぼ毎作品を掲載していた商業誌からは不必要とされはじめ、気付いた頃にはヘミングウェイなどの新興作家にその座を奪われていたスコットは、アルコールに溺れていた。その中での描写。
療養のために宿泊していたサウスカロライナのホテルで彼は、ハード・ドリンク(ウィスキー、ワインなど)を一切絶ち、ビールのみを許し作家復帰を目指し奮起していた。その頃の彼はほとんど食事を摂らず、睡眠薬で短い睡眠をとりながら、一日多い時で32本のビールを飲みながら未完成の小説を書き続けていた。ベルボーイがビールを届けてもスコットは顔さえも上げず黙々と書き続け「一本だけビールの栓を開けといてくれ」と頼むだけで、顔をあげずただただひたすら書き続けていた。彼はやはり自分の才能を信じていたし、それに認められることが必要な天才だったのだ。
後に最期の作品となる『崩壊』3部作を出すスコットは、この1935年には何一つ作品を完成できなかった。32本のビールと共に一日中ひたすら書き続けた未完成の作品は一度も外に出ることはなかった。
その情景がとても儚くて思わずヘッドフォンを手に取ると、開けっ放しのiTunesからは友人であるKeiichi Nanba君の音楽が鳴っていた。耳から脳へと届くアルペジオのループと共に一気にそれを一冊読み終えた。
そして、ある不動産関係の知人から先日頂いたフロリダ産オレンジを取りにキッチンまで行き包丁を入れると、一気に食べきってやった。太陽の光をたっぷり含んだ。確かにそのオレンジはそんな味がしたような気さえした。
外はまだ暗い。世界はまだ寝ている。今日だって相変わらずの怠け者だ。
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