Thursday, January 24, 2008

中国がやってくる

何故こんなにもニューヨークには中国人が多いのか。何故チャイナタウンには飽きもせずくだらないコピー商品や同じデザインのお土産商品が並べられているのか。何故チャイナタウンは汚らしく見えるのか。
ニューヨークに来てから突然アンチ・チャイナになった僕は現在、チャイナに夢中になっている。

仕事柄、ニューヨークで発行されている新聞は読める限り(英語と日本語)、ダウンタウンやチェルシーで主に配置されている無料のゲイ新聞から有料新聞ニューヨークタイムズまでなるべくすべて目を通すように努力しているんだけれど、最近一番面白いと思うのがエポック・タイムス。




これは週刊の無料紙なんだけれど、その新聞記事に最近良く刺激を受ける。エポック・タイムスは英語で書かれているのだけれど、中国人が発行している新聞。もちろん中国語版(オリジナル)も発行されていて、「大紀元」という名前で発行されている。



驚きなのがその中身の充実度。僕が手にするのはニューヨーク・エディションなのだけれど、ニューヨークのローカル記事はもちろん、他紙とは違う視点で書かれた大統領選記事、国籍を超えて充実したアート部門、そして中国に関するニュースが主な特色。

時事性では弱い週刊なのに雑誌化せず「新聞」でいられているのは、自社記事が世間で騒がれている時事速報的なニュースの裏側をとらえているところ。選挙と言えば大きく分けてヒラリー・クリントンとバラックオバマの民主、ジョン・マケインとミット・ロムニー、マイク・ハカビーとルーディー・ジュリアーニの選挙運動報道が毎日繰り返されているが、例えば今週のエポック・タイムスが目をつけていたのがニューヨーク州における支持率で共和党ナンバーワン候補のジョン・マケインがニューヨーク出身のジュリアーニ元ニューヨーク市長を現在12%も上回っているという記事。「なるほどね」と思える、(これはニューヨーク在住に限ってだが)何か知って得したような記事が多い。

そして今週の目玉であったのは、中国内での携帯電話普及の影響についての記事。
現在中国で携帯電話を使用している数は5億にも上ると言われており、ここでは国内でテキストメッセージ(メール)が一般人に広くもたらしている政治的影響について書かれている。現在中国では、大多数の携帯電話保持者が個人用のアカウントで使用している言われている携帯電話というメディアを上手に利用した、アンチ・コミュニスト運動が広がっている。インターネットや携帯電話が来る時代以前は政府による武力的制圧が強く、中国政府や共産主義者らに対する反対活動は数多く水面下で鎮圧されていたが、これらの新しいメディア形態に特徴的な「プライバシーを守れる」という利点を生かし、現在まで恐怖で鎮圧されてきた人々がテキストメッセージなどを使って、今も根強い共産主義を転覆させるような情報が個人から個人へとといった具合に広く展開しているというのだ。内容も「共産主義をやめたい方はは1番を」「共産主義のユースリーグを抜けたい方は2番を」「共産主義のヤング・パイオニア・リーグを抜けたい方は3番を押して下さい」などという「選択肢は脱退のみ」という言わんばかりの気の利いたガイダンスが届くなど、なかなかユーモアに富んだ内容となっている。

更に驚くべきことに、米国、英国、カナダ、オーストラリア、シンガポール、マレーシアなどで発行されている英語版と世界29カ国で発行されている中国語版を中心にフランス、スペイン、ドイツ、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、ヘブライ、スロヴァキア等のエディションが揃っており、ウェブ上ではエポック・タイムスの記事がスウェーデン語、日本語、韓国語、ヴェトナム語、ルーマニア語、インドネシアの言語にも対応している。世界中に大きなコミュニティを持つ中国人だから成せる技だが、それにしてもここまでのバイタリティを保てる彼らにはとことん敬服してしまう。

来たる北京五輪、世界一と言われているワシントンのケネディ・パフォーミング・センターをも越える規模で中国国内に建てられたナショナル・パフォーミング・センター、反共産運動、アート・ブーム、そして海外で広められているメディア活動。「次は中国」とは大分前から言われ続けていたが、ようやくその実態が見えて来た気がした。

昔のルームメイトなどから聞いてはいたが、世界に飛び出し生活している中国人はの多くはかつての中国共産時代の面影を残す制度から逃れるために移住しているというのが嘘ではない気がした。世界からも自国の自由を主張し、わずか40年足らずの共産主義によってレイプされていた4000年の歴史を、世界に拠点を移した彼らが自国に向けて体を張って叫んでいるのだと思うと、これはもうすごいとしか言いようが無い。更に更にすごいのが、そのナショナル・パフォーミング・センターの館長らの悩みが、主な発表の場にしたいはずのクラシックやオペラの講演の有無。何処がすごいかというと「(クラシックやオペラの講演をするかしないかで悩んでいる理由は)それらの大半が輸入物だから」だというわけ。つまり中国は本格的に自国の文化を広めていきたいということ。

中国はやっぱり凄かった!



「まぁ目先の金のことしか頭にないバカな連中も多いけどね」と言ったかつての中国人ルームメイトの言葉が未だに強く僕の脳裏に焼き付いてはいるけれど。

Monday, January 21, 2008

20日ほど遅れた初夢

新しい年が始まり、初めての夢ー初夢ーは、ひょんな時に起こった。身を切り裂くような風の日にソーホーで食べたおいしいハンバーグの後、この心地よいベッドの上でうとうとしていたら突然やってきた。読みかけていたスコット・フィッツジェラルドの短編も中途半端にそれは突然やってきた。

僕は日本のどこかにいた。誰だか見覚えのない顔と一緒に車に乗っていたと思う。喉がひどく乾き、近くに見えた2軒のセブンイレブンに車を停める。2軒あった。あたかも違う店のような店構えで2軒並んでいたのだ。左側のそれは、セブンイレブンの見慣れた看板を掲げてはいるけれど、その中身はがらんとしていて飲み物はおろか、スナック菓子や雑誌などのコンビニエンスストアに置いてありそうな商品は何一つ持ち合わせていなかったように思う。映画で例えるなら「バッファロー66」のあの冷たそうなあまりに閑散としたグレーのコンクリート。古びたガラスのドアを開けて見える左奥には何故かスーツの仕立て屋のようなセットだけが置いてあり、前にちょこんと座っていたレジにはホコリがかぶっているようにも見えて、店番をしているはずの人間はそこにはいなかった。仕方なく、隣に並ぶネオンの明るい方のセブンイレブンに入ってみたが、それはどこか今まで知っていたセブンイレブンではなく、記憶が正しければ店奥に並んでいるはずの飲料コーナーはそこでは塗り立ての白いコンクリートで覆われていた。レジから見て縦並びであるはずの棚は5列くらいの横並びになっている。よく分からないまま店内をどことなく歩いてみたけど、どうしても飲み物が見つからない。飲み物かな、と思う商品はあったけれど、見慣れたはずのあのいつのまにか捨てにくいゴミへと姿を変えるペットボトルが見当たらない。



これはまぎれもなく夢。何一つ論理的ではない夢。記憶と矛盾が二重した何ら変哲のない夢。
「Siamese Dream」ー僕はスマッシング・パンプキンズのその退廃しながらも高貴なそのイメージが大好きだ。外は暗い。

いつしか飲み物を選び終わっていて、レジに並ぶ、それにしてもすごい人の数だった。
長いレジに並びいざ自分の番が来るとなると、さてお金の払い方が分からない。ポケットに手を伸ばし財布を手に取る。勘定の準備は十分すぎるほど出来ている。しかし肝心のお金の払い方が分からない。店員はのっぺらぼうみたいに突っ立てやがる。後ろに待つ列のどこからともなく舌打ちが聞こえる。かぶっていたニット帽の額らへんに汗がにじむ。すごく腹が立っていた、お金はある。払う準備も出来ている、お金もここに確かにある。それなのに払い方が分からない。

そんなところで目が覚めた。マーティン・ルーサー・キング Jr.の日で今週は3連休。連日の仕事のせいか体がひどく疲れているみたい。時計の針は12時を指していた。カーテンを欠いた窓の外は暗い。窓を開けてみるとやはり寒い。つまり深夜12時だ。

あまり現実がつかめないまま、読みかけのスコット・フィッツジェラルドの短編集の続きを再び開く。自分の翻訳の勉強のために買った村上春樹による翻訳版。開けた続きのページは、スコット・フィッツジェラルドの過ごした1935年についてだった。そこでは、記録されたスコット・フィッツジェラルドについての見聞を基に村上春樹が彼の1935年を語っていた。





大恐慌と共に、すべて順調に進んでいた人気作家としてのスコット・フィッツジェラルドの人生は下降していた。それまで人気作家としてほぼ毎作品を掲載していた商業誌からは不必要とされはじめ、気付いた頃にはヘミングウェイなどの新興作家にその座を奪われていたスコットは、アルコールに溺れていた。その中での描写。
療養のために宿泊していたサウスカロライナのホテルで彼は、ハード・ドリンク(ウィスキー、ワインなど)を一切絶ち、ビールのみを許し作家復帰を目指し奮起していた。その頃の彼はほとんど食事を摂らず、睡眠薬で短い睡眠をとりながら、一日多い時で32本のビールを飲みながら未完成の小説を書き続けていた。ベルボーイがビールを届けてもスコットは顔さえも上げず黙々と書き続け「一本だけビールの栓を開けといてくれ」と頼むだけで、顔をあげずただただひたすら書き続けていた。彼はやはり自分の才能を信じていたし、それに認められることが必要な天才だったのだ。

後に最期の作品となる『崩壊』3部作を出すスコットは、この1935年には何一つ作品を完成できなかった。32本のビールと共に一日中ひたすら書き続けた未完成の作品は一度も外に出ることはなかった。

その情景がとても儚くて思わずヘッドフォンを手に取ると、開けっ放しのiTunesからは友人であるKeiichi Nanba君の音楽が鳴っていた。耳から脳へと届くアルペジオのループと共に一気にそれを一冊読み終えた。

そして、ある不動産関係の知人から先日頂いたフロリダ産オレンジを取りにキッチンまで行き包丁を入れると、一気に食べきってやった。太陽の光をたっぷり含んだ。確かにそのオレンジはそんな味がしたような気さえした。

外はまだ暗い。世界はまだ寝ている。今日だって相変わらずの怠け者だ。

Saturday, January 12, 2008

Happy Fuckin' New Year.

一足遅れて新年明けましておめでとうございます。

早速ですが、1月26日より1週間だけと短いですが、日本へ帰国する由となりました。



非常に頭の悪いスケジュールですが、到着日の午後11時より東京都は両国にて行われるRizing Sound Vol. 10にてライブ出演を予定しております。非常にタイトなスケジュールなため、どんなショウになるかは自分でも予想がつかない状態ですが、言葉通り「音」を「楽」しみたいと思っています。
できるだけかつて身近に接していたミュージシャンらとセッションする形で進めたいとは思っていますが、一体どうなるんでしょうか。
これまでにも米国ウィスコンシン州、最近では現在住んでいるニューヨーク市ブルックリン区などで、一切の練習/リハーサルなどを省いた即興演奏のステージを幾度か試みてきました(練習時間がなかっただけという説もある)。なので、せっかく帰国してのステージだけど決してコマーシャルな活動はできないであろうため、主催であるRizing Sound Production側にはどう映るかは分からなく多少なりとも不安を感じていますが、ここでもやはり文字通り「音」を「楽」しみたいと思っております。来て頂ける方はご一報頂けると幸いです。この7日間でなるべくたくさんの人と会い、話が出来ればいいな、と思っています。

さて、仕事柄話題はもっぱら米国大統領選が多いですが、ここでまたは何故か突発的に「広告」について書きたいと思います。




仕事のためではないのですが、個人的な興味で読んでみた「広告内視鏡」(日本経済新聞社)。これがまた面白かった。
70年代にビール産業界で見事なニッチ産業(aka隙間産業)により独自のポジションを築いたサッポロビール社の広告「男は黙ってサッポロビール」。



もちろん僕などは当時この世に生まれてもなかったわけだけど、この本を読んでこれは本当見事だと思った。ビール愛好家の誰もがひいきのビールブランドについての詳しい説明などできず、各ビール社としても他社製品との差別化を計ることに四苦八苦していた時代にあえて、「黙ってサッポロビール」と、ブランド力のある三船敏郎の写真を黒沢映画風のデザインに添えて打ち出した。「言葉が力を持っていた時代」などと言ってはあまりに短格的すぎるけれど、現在では類いまれに見る名文句だと思う。そう、ニーズが求めていたものは決して「ホップ100%」の宣伝文句でもなく「のどごしさわやか」などでもなかった。黙って飲めればそれでよかったということ。ビール界の核心をつき、商品説明を省いた広告時代の先手を切った。

また、同書内で語られていた事項の一つ、即売効果をもたらす「プロモーション」と、長期でのお客さんと売り手側の信頼を繋げる「アドバタイジング」の決定的な違い。このアイデアも当たり前だけど日常生活ではついわすれがちな考えだな、と感心した。

こう考えると、ヒラリー・クリントン上院議員の大統領選へ向けた多大なる宣伝活動は「アドバタイジング」ではなく立派な「プロモーション」であるが、集計で気になるのはきっと即効果を産む「プロモーション」。しかし、やはり土壇場になって気づくのはきっと、彼女のこれまでの行動をもふまえた「アドバタイジング」の絶対的な必要性であると思う。そう考えると、僕が今回出演するRizing Soundも現在フライヤーを配ってプロモーションをしているだろうけれど、今後のイベントに対する「アドバタイジング」を考えるきっかけとして考えるヒントになってくれたら、と勝手ながら思う。ヒラリー・クリントンを例に出すのが小さく思えてしまうほど、ローカルを盛り上げようとするRizing Soundのようなイベントには今後もっと多くの人に知ってもらって大きく成功してもらいたいのだ。

さて、「広告」「宣伝」という言葉にはネガティブなイメージも多くついてきてしまうこんな時代だけれど、「広告内視鏡」で著者の言う「長期でのお客さんと売り手側の信頼を繋げる『アドバタイジング』」と考えれば、それほど嫌うべきものではないな、と思える。更に、もし自分の宣伝する事物が誇れる事物で、本気で広めていきたい事物であるなら尚更、「広告や「宣伝」は忌み嫌われる物ではなく、その事物に次ぐ最重要な事項であることのように思える。それが政治活動であれ、素晴らしい新商品の開発であれ、お店の新規オープンであれ、音楽のイベントであれ、個人経営であれ大きなチェーン企業であれ、芸能人のコンサートであれ、アンダーグラウンドなアートイベントであれ、人の目に、耳に直接伝えられなければ何も意味はなくなってしまうわけだ。そこに大小の違いなんてなくって、「宣伝、広告、営業」なんていうのは、個人単位であれ企業単位であれ、どこにでも共通している重要な行為だから。

人に情報を伝達するというとても大切な役割を持つ「メディア」というのは「広告」「宣伝」を伝える大切な媒体であるけれど、中でも老舗ニューヨークタイムズ紙の自社広告などを見るといつも感心させられる。「No day is complete without The New York Times」、1940年頃の「All the News That Fits Our Agenda」よりもはその過激度は低くなったが現在もロゴ/タイトル横に毎日居座っている「All the News That's Fit to Print」というキャッチ。こんな直接ビジネスに繋がらないような小さな積み重ねが100年以上という長期のお客さんと売り手側の信頼関係を築いている。



アメリカの嫌なところも多く見たけれど、「個人単位」や「ローカル」でのプロ意識を見ると、これは日本よりも米国にはるかに軍杯の上がることの一つだなと思うし、「日本ではどうなんだろう、もっとローカルで "インディ"な文化でこういうことに真剣に取り組めないのかな」などと、いつも通りの他人任せスタイルで真剣に考えてみた。

「Rizing Sound Vol.10」
時間:11pm〜5am
場所:両国 Bootzcamp Four Valley(東京都墨田区両国4−36−6)
   ・JR両国駅 東口より徒歩1分
   ・地下鉄大江戸線 A−4出口より徒歩2分
料金:1500円